2020-01-28 第201回国会 衆議院 予算委員会 第3号
そこで、我々は交渉の姿勢として、長門合意で行ったように、かつては、米ソ冷戦構造時代には、大変厳しい環境下ですから、もちろん外務大臣も、例えば、グロムイコ外相とは会えない、もちろん当時のブレジネフ書記長とは全く会えないという状況が長く続いた中において、例えばこちらの言い方を非常に強い姿勢で維持するということは、それは当然のことなんだろう、こう思うわけでございますが、その中で、我々はアプローチを変えて、
そこで、我々は交渉の姿勢として、長門合意で行ったように、かつては、米ソ冷戦構造時代には、大変厳しい環境下ですから、もちろん外務大臣も、例えば、グロムイコ外相とは会えない、もちろん当時のブレジネフ書記長とは全く会えないという状況が長く続いた中において、例えばこちらの言い方を非常に強い姿勢で維持するということは、それは当然のことなんだろう、こう思うわけでございますが、その中で、我々はアプローチを変えて、
国際司法裁判所につきましては、かつてソ連が領土問題の存在自体を否定し続けているという状況の下で、一九七二年に当時の大平外務大臣から国際司法裁判所への北方領土問題の付託を提案したことがございますが、ソ連のグロムイコ外相がこれを拒絶したという経緯がございます。
それにもかかわらず、当時のグロムイコ外相は、そのような約束をしていないということを折に触れて述べ続けました。それが現実外交の厳しさです。 ところが、日朝平壌宣言には、日本の植民地支配に対する謝罪と北朝鮮への経済協力は詳細に明記されているのに、北朝鮮が約束すべき、我が国及び日本国民の平和と安全に関する重要問題については一切、明記されていません。
「グロムイコ外相から、わが国とソ連との間に友好親善条約なるものをつくってはどうかという提案がございました。それに対して私は、」宮澤さんが、「ソ連との間にはまだ法律的に、つまり条約上平和という状態がつくられていない、現実に領土問題が残っておるわけでございます。
ただ、大変驚いたことは、とにかくリップサービスで言ったつもりが、後で、例えば食事をしたときにこの肉はおいしいですねと言ったらその肉を何と飛行機一機分ロシアに送ってきて、それで始末するのに困って、当時グロムイコ外相に半分持っていったとか。
四十年前、ソ連のグロムイコ外相がサンフランシスコ講和会議の交渉の席をけって以来、初めて北方領土問題の解決と日ソ平和条約締結の好機が訪れようとしております。特に八月クーデターの失敗と、七十四年にわたるソ連共産党の解体、ソ連経済の破綻、それを踏まえての西側諸国の対ソ支援積極化の動向並びに新しい世界平和秩序づくりのために、日ソ関係の正常化を求める動き等々がそれであります。
○遠藤(乙)委員 具体的にお聞きしたいんですが、外交文書と言えるかどうかわかりませんが、六〇年一月のグロムイコ外相のいわゆる覚書、六〇年安保条約締結に際していわゆる歯舞、色丹の返還をいわば取り消したといいますか、押さえた覚書ですね。これは「肯定的要素」に入るんでしょうか。
今、五六年の日ソ共同宣言を出発点にして、このことはもう基本的な認識が両国の間でできているという欧亜局長のお話でしたけれども、その次に、一九六〇年にグロムイコ外相が日米安保条約の締結を理由に、日本から外国の軍隊が撤退しない限り歯舞、色丹は返還しないという覚書を一方的に日本によこしています。
ソビエトの三十年間グロムイコ外相下の外交というのは、木村参考人がおっしゃいましたように、ミスター・ニエットで、アメリカのやることにみんなニエットと言っておればソビエトの外交が成り立っていたわけです。そういったことからすれば、シェワルナゼ外交というのはミスター・ダーで、アメリカの言うことにかなり協力的であったと思います。
その後の平和条約交渉はその合意にもかかわらず行われておりませんでしたが、日中国交回復直前にグロムイコ外相がやってまいりまして、日中との絡み合いで日ソをむしろ先行させたいという希望を表明したわけですけれども、具体的には日中国交回復後の一九七二年十月に初めて大平外務大臣が訪ソいたしまして第一回目の平和条約交渉が行われました。
そして、今先生が例に挙げられましたように、かつてのグロムイコ外相が何度も日本に来て話をされるとき、例えば総理とグロムイコ外相の会談にも私は横に同席させていただいた経験を持っておりますけれども、取りつく島がないというような、だめだという態度じゃなしに、今度のヤコブレフさんは、私が初めて会って歓迎のあいさつをしていろいろお話をしたときに、大変大きな口をあいて笑われたとか、ああいった顔を見たことは珍しいとか
他方におきまして、日ソ間の最大の懸案でございます北方領土問題についてのソ連の立場は、かつてのグロムイコ外相のように話し合いのテーブルにも着かないということではなく、一応議論するという姿勢を見せ始めております。しかし、その基本的な立場には変化がないのみならず、極東の軍事力を増強し続ける対日政策におきましては、ゴルバチョフの言ういわゆる新しい思考などは片りんも見られないような気がいたします。
アジア部のSS20に関するソ連の主張は、交渉当初は欧州撤去分のSS20をアジア部に移転する、これは八三年一月十七日のグロムイコ外相の発言でございますが、こういう立場であったわけでございますが、その後、アジア部のSS20は凍結する、これは八三年八月二十七日のアンドロポフ書記長の発言でございます。
例えば、まず第一に、一九八四年の十二月には、我が党とソビエト共産党との両党会談でも、核兵器を不法なものとして、その廃絶を人類にとって死活的に重要な課題としてはっきりと宣言をいたしましたが、それが具体的に世界政治の場でも八五年の一月八日発表されました米ソ共同声明になって、グロムイコ外相、シュルツ国務長官との間で、双方は会談を通じて核兵器と宇宙兵器に関する来るべき米ソ交渉の主題と目的について討議したとして
他方、ソ連に対しましては、事件発生後機会あるごとにソ連に対して申し入れをしておりまして、五十九年の二月及び九月の日ソ外相会談のときに安倍外務大臣からグロムイコ外相に対して、それから本年一月の日ソ外相定期協議の際にも安倍外務大臣からシェワルナゼ外相に対しましてこの問題を提起したわけでございますが、遺憾ながらソ連からは誠意ある対応を得ていないというところでございます。
それで、一九七二年のグロムイコ外相と福田外相との政府間の文化交流交換公文というのですか、これは現在まできちっと有効に機能しているのでしょうか。
その後、グロムイコ外相とシュルツ長官との会談においてもアメリカ側からこれを持ち出して、グロムイコ外相はこれに対して大変興奮して怒ったという話を後でシュルツ長官から聞かされました。 また同時に、中国の呉学謙外相ともこの北方四島問題について話をいたしました。
そしてそれを受けて、いわば放棄された千島列島云々、歯舞、色丹については、ダレス長官がグロムイコ外相に対して地図を突きつけて、これは北海道の一部である、こうやったわけでしょう。その部面は共同宣言の中で、平和条約が締結された場合には引き渡す、こうなったわけですね。そういう認識はやはり私は正しいと思うんですね、認める認めないは別でありますよ。
○安倍国務大臣 今の総理の答弁にありましたように、サンフランシスコ条約に調印をしましたほとんどの国が北方四島は日本の領土であるということを確認をいたしておりますし、最近におきましてもアメリカのシュルツ国務長官、さらに中国の呉学謙外相も、グロムイコ外相との会談の際に、北方四島は日本の領土である、これを日本に返すことが真の日ソ友好につながっていくんだということを強調されたわけでございます。
○西山政府委員 その後、ソ連は態度を変えてまいりまして、特に七〇年代後半になりますと、例えば具体的に申し上げますれば、七九年の九月でございますけれども、当時のグロムイコ外相は、園田外務大臣に対しまして、日本の立場を受け入れることができず、また根拠のないものである、現在この議論をすることは、日ソ関係の進展に役立つものではない、例えばこういうことを言っておりますし、また八〇年の九月、同じくニューヨークで
特に、私は今度のシェワルナゼ会談を見ておりまして、一九七八年以来グロムイコ外相がとってきた、領土問題を話すなら、あるいは持ち出すならテーブルには着かないといった態度が変化した、その意味では、今後の領土交渉に手がかりがつけられたという意味では一つ前進があったと思うのであります。